お金と世界経済

1971年12月17、18日にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた10力国蔵相会議で決まった主要国通貨についての新しい体制は、スミソニアン体制と言われますが、72年6月23日に、イギリスはポンドの変動相場制移行を発表して、スミソニアン体制の一角に穴があきました。イギリスのお金ポンドは実質的な切下げとなりましたが、EC蔵相会議は変動相場制をとらずに、スミソニアン合意を維持することを決め、72年中は、それが維待されました。しかし73年に入ると、まず国際的投機資金はイタリアのリラ売りを展開し、1月22日にイタリアは二重市場制実施を決めました。これは経常取引は固定相場で資本取引は変動相場によるというものです。次いでスイスのお金フランが投機目標となり、スイスは1月23日、変動相場制に移行しました。翌24日に発表されたアメリカの72年貿易収支が64億ドルの記録的赤字であったことや、賃金、物価統制が第三段階に入ったことによるインフレ懸念、したがってドル弱体化への懸念が強まりました。これに対して西ドイツは、72年貿易収支黒字が63億ドルと発表され、投機はドル売り・マルク買いに集中し、西ドイツ通貨当局が9日までに買支えたドルは60億ドルに達するほどでした。
このような西ドイツの状況から、ドイツのお金マルクの行方が円の再切上げを必至とするので、日本は2月10日東京外為市場を閉鎖して、通貨再調整に口火を切る立場をとることになりました。東京市場に続き、12日には欧州主要市場は一斉に開鎖されました。12日、アメリカはドルの10%切下げを発表しました。スミソニアンでは7.89%切下げて1オンス35ドルが38ドルになっていましたが、それにひき続いたこの切下げにより、金とドルの関係は1オンス42.22ドルとなりました。アメリカはこの切下げを金との関係で表現せずSDRで表現し、1ドル0.92106SDRから0.828948SDRに変えるという言い方をして、SDR中心の国際通貨体制志向を強く印象づけました。1SDRは、35分の1オンスという金価値保証があるために、金との関係は、上記のようになります。このドル切下げに対し、西ドイツ、フランス、オランダ、ペルギー、オーストリア、ノルウェー、デンマーク等の欧州諸国とニュージーランド、南アなどは、金価格を不変のままにしたために、対米ドルとの関係で言えば、自動的に11.11%の引上げということになりました。日本は2月14日、変動相場制に移行のもとで市場を再開し、初日はほぼ14%高の271円相場となりました。この2月の通貨調整は、ドル切下げによってアメリカは対欧州との関係では、実質的に欧州通貨の切上げをかちとリ、日本には、それ以上の切上げをさせるために変動相場制移行を求めるという形で関係国の合意を得て、日本、イタリア、イギリス、カナダ、スイスが変動相場制であるとはいえ、がろうじて固定レート制の土俵を残そうとしたと見られます。日本は円の再切上げに追いこまれた形となりました。シュルツ米財務長宮は、2月19日この通貨調整で日本と欧州の協力的解決を求め、それが得られたと評価しました。
それから半月後の3月1日欧州の通貨市場では激しいドル売りが展開し、西ドイツ連銀は一日だけで27億ドルを買い支え、マルクだけではなく欧州通貨全体に投機が広がり、欧州全体で36億ドルの短資が流入したと見られ、2日の外為相場は一斉に開鎖され、東京市場もまた追随して閉鎖されました。ここに到って欧州各国は、個別にフロートに入るか、共同フロートに移るかの選択を強いられることになりました。この時の外国為替市場開鎖は3月19日まで続くという戦後国際通貨史上初の事態となり、この間アメリカ、EC、日本の三つどもえの打開交渉が続き、IMF当局もまた固定相場制椎持のための工作を続けました。結局、英ポンド、アイルランドのお金ポンド、イタリアのお金リラを除くEC6力国通貨が共同フロートに入ることが11日のEC蔵相会議で決定され、その下で18日から市場が再開されました。共同フロート体制を造るために、マルクは3%の切上げを行ないました。これは共同フロートだと、フランの買支えを西ドイツが行なうという事態が考えられるために、マルクとフランの差を小さくするためでした。しかしマルクヘの投機、欧州でのドル売りは依然衰えず、6月30日には、5.5%の切上げを余儀なくされました。通貨買支えによる短資流入、インフレ加速という道を避け、共同変動制を守るための措置でした。
しかしこれによって共同変動制のむずかしさが浮彫りにされたことや、日本円が相対的に有利になったことや、ドルの弱さが一層進んだことなどの問題点が浮き彫りとなりました。

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