東南アジアの華僑

東南アジア各国にいる華僑は、あわせて1500万から1700万人と推測され、各国の経済において抜きがたい実力を持っています。これらの国々はほとんど戦後独立した新興国であり、以前からのタイ国を含め、戦後は長族産業育成の立場から、華橋圧迫政策として就業制限やその他の径済活動の規制、中国製品の輸入制限、出入国管理、華僑系学校や新聞の閉鎖などの借置をとっており、どこでも困難な華僑間題が起っていました。なかでも注目されたのは、マレーシアおよびシンガポールとインドネシアの華橋問題でした。シンガポールは人口約200万人の70%程度が華僑で、有力な実業家もいますが、労働組合も強く、したがって270万人の華橋を抱えているマラヤがシンガポールを合併すると、経済力ばかりでなく、人口割合でも華僑が過半を制することとなり、労働組合の力も強くなる見込みがありました。このことは1963年にマラヤがシンガポールとの合併と同時に英領ボルネオとサラワタを抱きこんで、マレーシア結成に持ち込んだ有力な根拠でしたが、シンガポールは65年に早くもマレーシアから脱退しました。
シンガポールの抜けたマレーシアは、人口1000万のうち44%がマレー人、37%が華僑で、やはり複雑な華橋問題を抱えていました。人種、言語、宗教、習俗などの差異に加えて、マレー人は政治的に優位を保ちながら、大部分が小農民であっため、経済的には立遅れており、政府はこれを解消すべく種種のマレー人優遇借置をとっていましたが、これは華橋によって差別政策とみなされ、政府への不満が根強いく、69年5月の人種暴動はこの爆発でした。またインドネシアの華橋は250万人から280万人と推定され、総人口の3%にすぎませんが、戦前から、卸売業、小売業の流通機構を押さえており、独立後はさらに生産面にも進出しました。58年のスマトラとセレウェシにおける反乱後、これを支援した国府系華橋の銀行や会社を接収する弾圧策をとりました。さらに59年5月、中共系中華総会の反対をおしきって、大都市以外に居住する、外国人の小売営業許可を年末までに取消すことを布告し、ついで8月には治安維持を理由に東都カリマンタン、南部および東南部セレウェシ、西部ジャワ三地域の外国人を指定年へ移住させる軍命令を実施しために西部ジャワで流血事件が起こり、友好閥係を維持してきた中国との間に徴妙な緊張をもたらしました。しかし60年1月、中国・インドネシアの二重国籍案約が発効したために両国間の繁張は一時的に緩和しました。しかし、65年の9.30事件直後から事熊は一変し、軍部の撤底した共産党弾圧、それにあおられた反中軍感情の高まりとともに、インドネシア各地で露骨な華僑排斥運動が続発し、インドネシア・中国間の外交関係も悪化の一途をたどっていました。

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