ドル防衛

戦後の国際通賃金融体制はIMF休制と言われ、IMF協定によれば、各加盟国のお金は、金または金オンス35ドルのドルを基準にしてそれぞれの平価を決めることになっていました。しかもアメリカは、各国中央銀行がドルを金と交換したいと希望すればいつでもこれに応する建前をとっていました。したがって、IMF体制のもとでは、金が最終的な国際決済手段ですが、ドルは金の代埋という点越した地位を認めていました。これは大戦で荒廃しえ世界の中で、アメリカたけが戦火にさらされない戦勝国としてずばぬけた経済力を背景に巨額の金を蓄積し、この金に裏打ちされたドルへの絶大な信用があったからです。
しかし50年代末から、このドルの優越した地位が動揺しはじめ、60年秋にはドル不安が表面化し、それ以来60年代末へとこの不安は慢性化し深刻になってきました。アメリカの国際収支が58年以降赤字を続け、したがって国外への金の流出が絶えないからでした。国際収支が逆調になるのは、要するに貿易の黒字によって政府の海外軍事経済援助費や民間のお金の流出をカバーし支ないためです。そこでアメリカ政府は、国際収支を改善し、ドル不安を解消するため、またそうすることによって現行IMF体制を維持するための対策をとらねばなりません。これがドル防衛ですが、ドル不安が深刻化すればするぼど、その対策は、アメリカ1国では手に負えなくなり、IMFを支える先進国の共同歩調を必要とします。
アメリカのドル防衛は、60年秋アイゼンハワー政府が打ち出してから、ケネディ、ジョンソン、ニクソン政府へと引きつがれ、種々の対策がとられてきました。質易の自由化やバイアメリカン、シップアメリカン、フライアメリカンなどによる経常収支の改善や、海外軍事経済援助の削滅と友好国による肩代わり要請、民間資本流出の自主的規制、さらに利子平衝税の新設、あるいは公定歩合の引上げやIMFを通ずる一連の国際取決めなどです。しかし依然として国際収支は赤字から脱却できず、アメリ力産業の国際競争力が、近年の物価高コスト高で低下し、貿易の黒字が減る一方、政府の海外支出と民間の海外投資が増えているからであり、中でも本格化したベトナム戦争のための支出が重圧となっているからでした。
こうして、アメリカの金保有高は67年末、ポンド切下げにともなうゴールドラッシュも加り、ついに120億ドル台を割りました。そのためジョンソン政府は、68年1月、改めできびしいドル防衛政策を発表し、ここにはじめて民問企業の海外投融資を直接規制する措置を打ち出すとともに、アメリカ人の海外旅行の抑制、政府の海外支出の削滅、さらに長期対策として輪出振興、各国非関税障壁の撤廃、外国からアメリカヘの投資と旅行の促進を掲げました。しかし68年2月、深列なゴールドラッシュが再燃し、ついにアメリカを中心とする国際金プールはロンドンなどの全自由市場への金の供給を停止し、金の二重価権制が実現するこどになりました。この時アメリカは法定金準備制度の廃止と北爆部分停止に踏み切り、さらに6月には景気抑制によって国際収支の改善を狙う増税政策を実施し、10月には北爆全面停止によるベトナム戦争終結を明らかにしました。
68年には国際収支は11年ぶりで僅かながら黒字を記録したものの、69年、70年と大幅の赤字に転落しましたアメリカ経済は69年秋ごろがら停滞局面に入りましたが、インフレは一向に収まらず、失業率も上昇を続け、さらに70年碁れ以降、景気浮揚のためにとられた度々の公定歩含引下げによって大量のドルが流出しました。そのうえ71年前半期の貿易収支の悪化と5月のマルク変動相場制によってドル不安が強まり、8月上旬アメリカの金保有高は100億ドルすれすれまでに減少したため、ニクソン政府は8月15日、金、ドル交換一時停止を含む一連の衝撃的なドル防衛策を打出しました。これはIMF体制下にある諸外国に大きな衝撃を与え、ドルショックあるいはニクソンショックとも呼ばれました。

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