東西援助競争

開発途上国に対する先進資本主義諸国と社会主義諸国との、東西両体制による経済援助競争で、この援助競争が現実化したのは1950年代半ば以降、社会主義国、特にソ連の援助が始ってからのことですが、それ以前のアメリカの経済援助も東西対立を前提にしたものでした。戦後復興期、東西冷戦期におけるアメリカ政府の援助が、自由主義陣営のてこ入れのためであり、反共なら新興国のどんな腐敗政権にも与えられたことは、よく知られており、傾向は続いていました。総じてアメリカの経済援助の狙いには、このような国際政治上の配慮と自国の経済的利益の確保とが絡みあっています。余剰農産物援助は、被援助国の食糧危機緩和のためである一方で、自国内の余剰処分のためでもありました。したがって、戦後の援助は東西冷戦と大国の利己主義から発足したと言われます。もちろんアメリカに限らず、一般に西側先進国の援助は、政府接助であれ民間援助であれ、自国資本のための市場を確保し拡大するという狙いを持ち、したがって市場再分割のための援助競争が行なわれる。このことを、援助される開発途上国からみると、先進国の資本の市場として役立つ限りでの援助が与えられることを意味します。そこには政治的独立の装いをとらせながら経済的支配維持しようとする新植民地主義が成立しやすくなります。新植民地主義は新興国内で外国の経済的支配を自己の利益とするグル−プが権力を掌握するときに可能ですが、東の援助が現実のものとなり、南の開発途上国からの一援助要請が増大するにつれて、北の先進国側の援助が露骨な利己主姜で相互に競合するだけてはすまなくなります。DACによる援助の調整は、この動きを示していました。
50年代から60年代を通して、西側の開発途上国援助は、量的にはアメリカが圧倒的に多く、ついで、フランス、イギリス、西ドイツ、さらに日本、イタリアなどのDAC諸国や国際機関によって行なわれてきましたが、60年代未になると西側援助総額のうち、米英のシェアの低下と西ドイツ、日本の増大がみられ、60年代を通ずる援助額の伸び率では北欧三国、オーストリア、オーストラリア、カナダなどが日本や西ドイツともに高いという傾向示していました。西側の援助の形態は様々で、政府援助と民間援助があり、前者が特に増えたのは第二次大戦後の特徴です。この政府援助は二国間援助と多国間援助に分けられますが、さらに二国間援助は、贈与と政府借款から成っています。また民間援助は、民間輸出信用と民間投資を示します。なお技術援助は主に政府援助、それも増与がほとんどです。東側の援助は、開発途上国の特定のプロジェクトに対する政府借款が大部分であり、贈与は学校・病院建設や技術援助に向けられています。東のうちではソ連の援助が科学的には多く、中国やチェコスロバキアなどが、これに続いていましたが、西と比ぺて援助総額ははるがに少ないのですが、ぞの特徴は電力、重化学工業、工作機械工業、鉄道建設などのプロジェクトへの借款が中心であり、開発途上国の工業化を促進する、比較的低利かつ長期の寛大な借款条件、返済には、被援助国の通賃または商品を認める、という点にあり、西の援助を牽制する役割を果たしていました。この点では、被援助国の自力更生を強調する中国の援助は軽視しえないばかりでなく、中ソ対立を背景として中ソ援助競争の傾向も出ていました。

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